ゲームブック「片想いからの脱出」

 

リアル恋愛ゲームブック  片想いからの脱出 「運命の人」と、両想いを目指せ!  (マップ、手紙付)

リアル恋愛ゲームブック 片想いからの脱出 「運命の人」と、両想いを目指せ! (マップ、手紙付)

 

 

最後の大謎だけが解けません……最後にたどり着くまで、すごく簡単でサクサク進むので、たぶん初心者向き。

 

その後、少し別のことをして頭をリフレッシュしてから探したら解けました。脱出成功!

夏休みに高山に来てみたら外国人観光客でいっぱいだったでござる

名古屋-高山への電車内

夏休みを高山で過ごすと決め(週の真ん中に松本山雅との試合があるため、近いところで決めた)、名古屋まで新幹線で向かった後、ワイドビューひだの切符を取って乗り込んでみたら回りから英語やスペイン語がかなり聞こえてくる。えっと、なぜ、こんなに欧米系の人が高山に向かうのですか?車内では前の座席に座っている外国人カップルが。男性の膝の上に女性が乗り、キスを繰り返している。町中だったら風景の一つとして処理できたのに、目の前で見せられているので視線に困る。なので、ずっと窓の外を見ている始末。日本のローカル線の景色とヨーロッパ的な風景が合わさって脳内は絶賛混乱中。なぜ、こんなことになっているんだ?

 

https://instagram.com/p/5lkmL8Asce/

絶景の中をずんずんと進む。車両の半分は欧米系の外国人、聞こえてくる英語、spanish。窓の外は変わらない世界、窓の中は人種の坩堝。照りつける太陽、閉められるカーテン、見えなくなる絶景、ずんずん、ずんずんと進む列車。

高山に降りてみると

駅前に見えるたくさんの欧米系の人たち。中国人、韓国人も混じっているけど、首都圏と違って欧米系の人たちの数が逆転している。しかも、観光案内所で完備されている英語をはじめとして様々な言語でのガイド。また、free-wifiの文字。これ、訪日外国人が日本に来た際に困るところが全てケアされている(通信環境が貧弱、案内が分かりづらい、自分が分かる言語で書かれていない)。あれ?もしかして期せずして、外国人観光客が訪れる観光地のベストモデルに来てしまったのでは?ホテルにチェックインした後で調べてみたら、やはり飛騨高山は訪日外国人を増やすための様々な取り組みを先駆的におこなっているらしい。

 

www.vnetj.com

kankou.city.takayama.lg.jp

 

行政だけでなく住民も積極的

驚いたのは、このような先駆的な取り組みを行政だけでなく住民も積極的におこなっていることだ。レストランに必ず英語メニューがあるだけでない。町中に出ている看板やちょっとした黒板にもメニューの英語表記がある。

 

https://instagram.com/p/5mbKPpgsev/

高山は外国人観光客が多く賑わっているのですが、街中で出ているメニューのほとんどに英訳が付いています。free wifiもあって(簡単な登録で1週間使える)、外国人観光客に人気が出る理由が分かりました。

 

このような外国人観光客を受け入れる方策は行政が旗を振っていても、実際に住んでいる人たちが協力的でないため、なかなか進まないことが多い。日本人の英語への苦手意識や異文化コミュニケーションの経験が少ないことが作用し、外国人観光客を呼んで活性化につなげようという大文字の目的は頭で理解しているが、実際には面倒、誰かにやってほしいという想いが先行してしまう。

 

高山で学んだこと〜外国人観光客を増やすために〜

高山に来てみて英語を話す機会が増えた。英語は不得手なので、文法はめちゃくちゃ、単語は思い出せずしもろどもろ、ボディランゲージ多用中。でも、向こうも困っているので、ゆっくり話してくれるし、理解してくれようとする。なんとかなる。

 

少しずつまちがっている英語でも話すことが苦じゃなくなってきた。欧米系の人でもアジア系の人でも困っているようなら、声をかけてみる。もちろん、何に困っているか理解するのに時間がかかるし、こちらが説明するのもある程度の時間が必要。でも、問題が解決した後の笑顔、感謝の言葉で報われる。

 

高山に住んでいる人自身もそれを実感しているのだろう。高山の図書館には洋書や様々な世界の国を勉強するための本、留学するための本がたくさんあった。

 

https://instagram.com/p/5oLEGmgsUY/

充分休んだので、図書館に来た!

 

そして、コミュニケーションを取っていると当たり前の事実に気づく。「○○人は××」というのは存在しない、ということを(当然「××である○○人」はいると思うが)。そして、コミュニケーションを取ることで僕の認識も変わり、コミュニケーションを取っている人たちの認識も変わっていく。

 

昨今、アジアの裕福層の観光に向けたバッシングというか蔑視の目が強い。「爆買い」とも揶揄される、その振る舞いは昔、バブル時代で浮かれていた同じ日本人の裕福層に向けた蔑視の目と同一だ。しかし、逆の立場から考えるとどうだろう?自分たちの国の言語どころか英語ですらガイドが整っていない、困っていても誰も助けてくれない、そのような国に来る場合、家族だけ、友人だけで来たいと思うだろうか?その国のことが分かるガイドを雇い、話が通じる集団で来て、頭を使わなくてもコミュニケーションできる物の購入に関心が向くのは当たり前ではないか?

 

物を購入するというのは欲望側に立ったコミュニケーションである。それに対して、他のコミュニケーション(日本文化を教える、困っている人を助ける)というのは理性側に立ったコミュニケーションである。良く揶揄される「爆買い」は欲望に沿った行動しか出来ないことを蔑視するが、理性に沿ったコミュニケーションを日本人自身が敬遠しているのに理性に沿った行動をしない外国人を揶揄するのは、それこそ愚かな行動じゃないのか?

 

じゃ、どうすればいいんだよ、という意見が出てくると思う。そんな人には、まず困っている外国人観光客に声をかけてみては、とおすすめしたい。相手がどのような国籍、信条を持っていようが困っているときに助けられれば嬉しい、また、困っている人を見れば助けたいと思うのが人間として自然な感情だと思う。

 

困っている外国人観光客を見かけたら、一声、"Can I help you?"と声をかけてみれば良い。それは個々人の小さな一歩だけれども、将来的に日本という国の評判を変える大きな一歩になるかもしれない。

 

宝塚は若者男性オタクに向いているのではないかと感じる3つの理由

 

労働組合の文化レクリエーションで「宝塚歌劇」の団体観劇を企画することになった。(「宝塚」にはまっている人がいて、その人の勧めで宝塚観劇の団体観劇をおこなうことになった)その前までは1回も見たことがなく、「女性だけで構成されている歌劇団」「熱狂的なファンがいる」ということしか知らなかったので、慌てて勉強し、「1789 -バスティーユの恋人たち-」を見てきた。

 

kageki.hankyu.co.jp

 

1回しか見ていないのでトンチンカンなことを言っているかもしれませんが、宝塚は若手男子オタクに向いているのではないか、と感じました。今から、そう感じた理由を書こうと思います。

1. 宝塚はアニメオタクを穿つ

宝塚で最も重視されているのは歌やダンスではありません(もちろん、歌やダンスの腕も磨いていますが)。スポットライトを浴びた際の演者の顔の向き、表情、全身の表現などストーリーに沿った形で格好良い《キャラクター》が前面に押し出される、その演出です。劇に沿って披露される数々の見せ場はストーリーのテーマを匂わせつつ、演者の《キャラクター》を確固たる物にし、それが演者自身への《キャラ》の補強へと還元していく。同じような戦略を持って迫ってくるモノをあなたは思い出すのではないでしょうか?そう、2010年代以降のアニメ主題歌の戦略です。

 

2010年代以降のアニメ主題歌はアニメ本編のテーマを匂わせつつ、歌い手自身の《キャラ》も補完していくというハイブリッド戦略を持っているます。1990年代の歌い手の《キャラ》を前面に押し出した声優アイドルの概念がみんなに浸透していった時代、エヴァ以降に急拡大したサブカル層に受け入れられるストーリーのテーマに沿って書かれた(そして、歌い手の《キャラ》は徹底的に封じ込められた)2000年代を経て、2010年代からは歌い手がアニメのストーリーのテーマを歌い、そのストーリーのテーマが歌い手の《キャラ》を強化していくハイブリッド時代に突入しました。

 

僕が知っている2010年代以降のアニメ主題歌を歌っているアーティストの中で宝塚と同じような凜々しさ、清廉さを持っている歌い手の筆頭はKalafinaです。僕は宝塚の舞台を見ながら、これはKalafinaのライヴのようだ!神秘性と凜々しさと清廉さをどう魅力的に見せるか、それを最大限に計算している!と感じていました。

 

www.youtube.com

 

数々の見せ場で繰り広げられる歌劇やショーは見方を変えれば、僕たちが楽しんでいる2010年代以降のアニメ主題歌を歌っているアーティストライヴと酷似しています。そして、それはそのまま宝塚歌劇が最近のアニメファンにも受け入れられる土壌を持っているとも言えるでしょう。

2.従来からの《男性的コミュニケーション》に悩まないで済む

 《男性的コミュニケーション》と聞いて、論理思考とか問題解決型とか考えるのは早計です。ここで述べたいのは、いわゆる「ポケモンコミュニケーション」。自分が持っているポケモン(異性とか権力とか)の数や強さや質などを自慢し合う果てのない物語。ときどき、女性が「男性はいつまでたっても子供のようなコミュニケーションで盛り上がれる」ことに呆れているかもしれませんが、童心に返ってコミュニケーションを取って楽しめるのは古くからの友達が相手の時だけです。権力というのは基本的にはちらつかせている端物のようなモノです。そして、決して少なくない男性がそんな権力ゲームを背景としたコミュニケーションに、本当に本当に嫌気がさしているのです。

 

特に若手男子にとっては権力を持つことにそれほどうま味がない、なのに権力ゲームから降りないために全精力を傾けなければいけない、その不毛さにうんざりしているわけです。時には自分を貶め、時には聞きたくもない説教を聞かされ、それで手に入れられるリターンが少ないとなれば、誰もそこに普通は近づかないでしょう。ただ、男性社会(もしくは女性が男性に認められる社会も同様)ではなぜか、この権力ゲームが目に見える形でも、目に見えない形でも何重にはりめぐらされ、疲弊していくのです。この権力ゲームは男性が大多数を占めるコミュニティではなぜか自然発生的に立ち現れます。(男性的コミュニケーションの不毛さから逃れるはずに作ったコミュニティが魅力ある女性の出現により権力ゲームに巻き込まれる、その気持ち悪さを知りたい方は「ヨイコノミライ」でも読んでください)

 

ヨイコノミライ完全版 1 (IKKI COMICS)

ヨイコノミライ完全版 1 (IKKI COMICS)

 

 

宝塚では上記のような下品な権力コミュニケーションに対して、ノリに加われないイケテナイ奴と思われないように一生懸命ついていく、そんなことは一切必要ありません。格好良い立ち振る舞いは自然に格好良い、可憐な立ち振る舞いは自然に可憐と思え、そして、それを周りの人に話せる世界です。また、今の若手男性オタクにとって同性同士の恋愛は(自分が対象にならない限り)嫌悪しません。これは腐女子界隈のできごとが一般的なことになったり、 女性同士の恋愛を示す百合物がそれなりに抵抗なく受け入れられている現在からも言えます。(ただし、一方で実際に自分が対象になりそうと思うと、鬼のよう な速さで遠ざかっていきます。これは同性同士の恋愛に対する忌避感と言うより、自分が欲望の対象となることに対する忌避感に起因すると思っています…… が、これはこれで書き出すと長くなるのでこの辺で)

 

上記を総合すると、「宝塚」は若手男性オタクにとって受け入れられる世界で、かつ、従来からある《男性的コミュニケーション》に疲弊する必要はありません。そういった意味でも今の若手オタクにぴったりな気がします。

3.そして、君の「未熟」は受け入れられる

若手男性オタクに限らず、自分を受け入れてくれるコミュニティの存在は重要です。それがたとえ一時の幻想かもしれませんが、ホームを持つことの安心感は先へ進むための助走へ力を変えます。タカラジェンヌは必ず、いつか「卒業」します。逆に言えば、宝塚を応援することは卒業する前の「未熟な」役者を応援することへとつながり、そして自分の「未熟さ」を受け入れることにもつながります。そして、その彼女たちの「未熟さ」を受け入れ、見守り、応援することで自分たちの「未熟さ」を受け入れることにつながっていきます。

 

でも、未熟さを受け入れ、見守り、応援するってアイドル活動の応援と変わらないんじゃないの?という人は出てきそうです。これは確かに非常にある意味、正鵠を得た指摘かと思います。特に、「AKB」と「宝塚」は未熟さを見守り、応援するという意味で非常に似ています。異なる点は「AKB」が選挙制といった世間の噂レベルで順位が急激に変動するシステムやじゃんけん大会などの完全な運を取り入れることによって、「偶然性」を積極的に取り入れている点でしょうか。その辺りのことは下記の新書に詳しく書いてあります。

 

 

でも、そんな中で若手男性オタクに対しては「AKB」よりも「宝塚」の方を推します。それは歳を取ってからの悲壮感が違うからです。中年男性がAKBにハマるのは格好悪い、とかいうのではありません。若手男性オタクが中年になってAKBを見続けると、いつの間にか「疑似恋人」の関係性から「疑似父娘」の関係性に変わってくる可能性が高いからです。(単純に自分の年齢は上がっていくのに、「AKB」にいるメンバーは卒業などを通じながら常に若く保たれるので当たり前といえば当たり前ですが)

 

「疑似父娘」という関係性のどこが良くないかというと、「父」と「娘」の関係は常に「父は常に娘に裏切られ(他の男に取られ)、それでも愛し続ける」という関係に結びつくからです。実際の「父娘関係」ならばそれは実の娘の数だけしか「裏切られない」ため、父親と娘を取り去った男は和解できるのですが、「疑似父娘関係」はAKBという枠内に入っている限り「娘」が無限に生産され、無限に裏切られ続け、それ故に無限に愛し続けなければいけないというループにはまってしまうからです。それよりは女性でありながら自分より格好良い「娘」が、可憐な「娘」が活躍する宝塚の方がよほどホームでありながら現実世界に戻りやすく、次の一歩を踏み出しやすい環境にあります。

 

もちろん、上記のリスクを十分承知の上でAKBファンを続けるというのであれば、それは個人の覚悟と自由ですので大丈夫です。しかし、「未熟さ」を応援することは自分の「未熟さ」を見つめ直しそこから一歩踏み出すことと捉えると、「未熟さ」を保ち続けるために奉仕し続けることは違います。あくまで若手男子オタクが「自分の未熟さ」を受け入れる、受け入れられる、そこから一歩踏み出すということをおこなうためには「宝塚」の方が向いているだろうということです。

 

いろいろ述べてきましたが……

僕が言っていることが正しいかどうか(正確に言えば、正しいと感じるかどうか)は一度、宝塚を見なければ分からないと思います。僕みたいにある程度大きな会社の文化厚生委員が宝塚のチケットを団体で取ったとかそんなことがない限り、普通は簡単にチケットが取れることはありえないでしょう。

 

一応、休日より平日の方が取りやすいようです。チケット販売初日に狙うのもありでしょう。それでも取れない場合は、もし周囲に宝塚にハマっている人がいれば、一度見てみたいと言えば手に入るかもしれません。ただし、もしかしたら一回見てもなんか違うな、と思うかもしれませんので、その人に一回試しに見に行くだけということを強調した方が良いかもしれません。また、チケットのキャンセルが出来ない場合があるので、そのあたりはメリデリを自分の目で見極めて、購入した方が良いと思います。

 

普通に見る分には良質のミュージカルと何ら変わりません。また、華やかなショーもあり(一般的に想定されている)男性も楽しめる要素もたくさんあります。しかし、もう一歩、奥深く進んでみると特に既存の権力コミュニケーションに疲れた、自分の羽を休める場所を探している若手男性オタクにぴったりはまるのではないかと感じる点が多々出てきましたので、書いてみました。

 

彼らと顔を合わせられる自分になれるか

Mr.Childrenのニューアルバム制作のドキュメンタリーを見ていた。

 

 

実に2年以上も待ち続けていた。音楽プロデューサーの不仲説が流れてきた。実にありそうだとは思ったが、それだけで別れるだろうか、という疑問が渦巻いていた。公私混同してしまい、仕事のクオリティが落ちる小林さんなんてメンバーにとって自明の物だと思っていた。

 

出てくる情報は「ウカスカジー」の情報やフットサルに興じる情報だけで、それを見て、またMr.Childrenの活動はほぼ停止状態になるのではないか、と危惧していた。でも違った。僕が煩悶としている間、ずっとMr.ChildrenMr.Childrenのモンスターと戦い続けていた。彼らは今までの公式をかなぐり捨て、新しいMr.Childrenを作ろうとしてきた。今までの公式、理論的な正しさの奴隷になるなら、こんなに時間がかかっていなかっただろう。しかし、それらの苦しみがあったからこそ、取捨選択があったからこそ、このアルバムが出来上がったのだと思う。意味のある混沌(http://collabpatterns.sfc.keio.ac.jp/No18.html)をくぐり抜け、僕らの前に現れた。

 

そして、傑作が出来上がった。購入してから家に帰って何度も聞き返している。外で聞くのはちょっと怖い。そのままどっかに行ってしまいたくなるのではないか。僕自身の生活を投げ出してしまうほど《どこか》が手招いているのではないか。そんなことを思ってしまうほど僕に寄り添う部分もあれば、僕を超える部分もある。でも、そんな伝説を生み出したような傑作を前にして、何も行動しないのは滑稽だろう。

 

「世界を変える」と言いながら効率でしか発言できない人にかみつこう。自分の小ささや世間的な評価を気にして取り繕う人にNoをたたきつけよう。それらはみっともなく見えるかもしれないけど、一見すると遠回りだけれども、自分自身に嘘をつき続けるほどこれだけの傑作を届けた彼らに失礼なことはないのだから。

 

記憶力がヤバい

昔からモノを憶えられなかった方で、なんていうか自分の記憶力のなさに感心してみたりする。他の人に一番古い記憶は、と聞くと保育園 or 幼稚園時代の話がすらすら出てきたりするのですが、僕の幼稚園時代の記憶は飛行機型したジャングルジムの運転席に座って、飛行機を飛ばす妄想をしていたことしか憶えておりません。どうやら、テーブルに置いてあった大福を全部食べてしまったとか暑さに耐えかねて暴れまくりエアコンを買わざるを得なかったとか幼稚園でスカートめくりがはやっていた時期に僕はスライディングして下から覗き込んでいた、とかそんな話を家族とか親族から聞かされるわけですが、そんなこと全く憶えていません。特に最後のは本当に自分ですか?いや、犯罪に走るわけじゃないけど、その女子に対する行動力を今の自分にも分けてほしい。

 

5月末に坂本真綾のライブが広島県厳島神社でおこなわれるわけです。僕は2006年からフロンターレを応援してきておりアウェーにも行ったことがあるので、当然のごとく広島には何度も行ったことがあるわけです。路面電車にも何度も乗りましたし、宮島にも一度、行きました。でも、もう路面電車の乗り方もあやふやで、宮島もフェリーに乗ったことは憶えているのですが、切符をどこで買ったかも忘れています。毎回、行くたびに広島特有の交通路線磁気カードがあって、SUICAPASMOも使えないので、それを買おうかどうか迷うとかそんなことは憶えているのに!

 

10,000時間の法則

世の中には10,000時間の法則というのがあるそうだ。10,000時間費やせば、その分野での天才と呼ばれるそうだ。日本人の総労働時間が平均1,800時間なので、その仕事だけに5年半費やせばその分野で天才と呼ばれることになるだろう。その法則に従えば。だが、話はそんなに単純ではないと思う。

 

10,000時間を漫然とやり過ごして天才になれるか?そうではないだろう。10,000時間を集中して費やさなければいけない。そこにはまず体力が必要だ。そして並外れた好奇心・興味も必要だろう。ある種、狂気に近いような形で取り憑かれた態度が必要だろう。だが、それだけで本当にみんなが天才になれるだろうか?

 

プロの中で天才と呼ばれるのはごくごく一部である。そして、プロになるのもごくごく一部の人間である。それでは、プロにならなかった人たちは10,000時間を集中して費やさなかっただろうか?たぶんプロにならなかった人たちも10,000時間を費やしたのだ。10,000時間を費やせば確かに一般の人とは違う上手さを手に入れるだろう。しかし、それはプロになれると言うこととイコールではない。その中でセンスがある人が残るのだ。そして、10,000時間を費やしたこと=ゴールではない。

 

当たり前のようにあるような楽しみをかなぐり捨ててでも、そこにしがみつくことしか出来ない。そんな中でも優劣が付けられ、劣っているとされれば立ち去らざるを得ない。まるで暴風雨の中で、業火の中で、縛り付けられながらもそこにいざるを得ない。それが天才の正体ではないか。

 

一般人である僕らはそんな狂気にも似た境遇にさらされながら輝いている天才たちを惜しげもなく消費していく。無邪気に天才にあこがれ、彼らは幸福なんだろうと思い込む。好きなことを仕事にしている、ああ、なんて素晴らしいんだろう。時には天才の悲劇すらも楽しんで消費していく。ああ、なんて素晴らしいんだろう。

 

 

西尾維新対談集 本題

西尾維新対談集 本題

 

 

 

 

 

凡庸を楽しむ心

およそ4ヶ月ぶりの投稿になります。

 

昨日は友人が結婚したとのことで、その話を聞いていました。その友人は高校の頃からの腐れ縁で、全く意図していないのに道が交わるというよく分からない関係です。例えば、何も進路に関して相談とかもしていなかったのに希望する大学の学部まで一緒だったり、自分のやりたいゼミになぜか既に入っていたり。意図せず、一緒になっているならば、さぞかし性格や好みが似ているんだろうと思われるかもしれませんが、全く似ていません。なんというか、かなり自由人で一般常識からはかなりピントが外れています(^^;彼に関しては話のネタに事欠かなくて、女の子からクリスマスにイタリアンディナーに連れていってほしいと誘われてイタリアンの美味しい店を知らないからと二郎ラーメンに連れていったり(3ヶ月間、口をきいてくれなくなったらしいです)、昨日は片肺が潰れて病院に搬送されたとき女医さんに治療のため胸に穴を空けられたときトキメキを感じたと力説していました。そのあと、メル友になったらしいです。未だに訳が分かりません。(ちなみに僕は入院していて、女医さんとか看護師さんとプライベートのアドレス交換なんて一切できなかったです……)

 

しかし、ここまでぶっとんでいると話を聞くのもある意味、楽しくなってきます。変なバイタリティがある奴なんで、とりあえず応援したくなります。とんでもない目にあったりもするのですが、まあ、許してしまいます。そして、ここまでぶっとんで行動する人を見ると、いろいろとルールに縛って行動を封じるのはナンセンスだと感じてしまいます。なので、大学時代は僕がサークルの代表をやっていたのですが、できるだけ彼が自由に行動できるよう大学時代は気を遣っていたような気がします。また、彼が他の人たちをうまく巻き込めるように力を使ったつもりです。

 

まあ、ここからが本題なのですが、こんな風に自由に行動できる下地を作ると「意識が高い」「口だけ達者」な人たちがのさばってくるんですよね。高校時代からの友人に関しては自分が何をしたいかという欲求に対して素直に行動するので(その欲求がぶっとんでいたとしても)アウトプットが期待できるのですが、「意識が高い」「口だけ達者」な人たちは他人からどう見られるかということに対してのみ行動指針を置くので、組織として非常にアウトプットが出づらい状態になる。なので、面倒だけれどもルールを作ったり管理するなどぶっとんでいない「凡庸な」人間の集まりでも何かアウトプットが出せるように制限したくなる。

 

また、ルールを作ったり管理する側がぶっとんでいる人に嫉妬したりすると面倒なことになります。なぜ、あんな好き勝手なことを許しているんだ、縛り付けろということになって面倒なルールを作り上げて縛り上げてしまう。

 

そうやって自分の「凡庸」を認めない、もしくは「凡庸」に陥れるという捻くれた楽しみ方で生きている人たちが多いと非常に気疲れします。

 

30代も半ばになってきて分かったことは人間の能力というのは残酷なほど差があると言うことです。ある人の中にはF1の車並みの能力があっても、違う人の中には自転車並みの能力しかない。世界の中で平等なのは結局、生命は死んでいくということだけなのかもしれません。そして、自転車並みの能力なのに自分はF1の車なんだと思っていたり、もしくはこっちは自転車で走っているのに向こうはF1の車に乗っている!ずるい!と思ったときに、それが社会生活とか組織とかそういう人間の集団と関わってくると不幸が生まれるのではないかと最近は考えています。僕自身は自転車並みの能力しか持っていないので、F1の車並みの能力の邪魔はしないで、かつ自転車から見える景色を楽しもうと思っています。そういった「凡庸」をひねくれてではなく素直に受け入れて、楽しむ。そのために微力を尽くす、そういう人生になればいいなと個人的に考えています。